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Posted on 2012-10-25
二つの優雅な創造

大阪大学医学部卒業生の機関紙である“学友会ニュース”に載った拙文をご紹介します。平成10年、私が大阪府立看護大学医短部で教鞭をとっていた時代に書いたものです。

二つの優雅な創造

大阪府立看護大学医療技術短期大学部  北村 肇(S41卒)

 私は子供時代、絵、習字、音楽などのアート関係の科目は不得意だった。音楽について言えば、楽譜なるものとはじめてまじめに向き合ったのは、大学で合唱部に入ってからであると思う。そのうち頭に浮かぶ旋律を楽譜に書けるようになり、良い加減な歌詞を付け、友人に歌わせたりガールフレンドに贈ったり……連中には迷惑な話であったことだろう。かくして無名のシンガーソングライターが誕生した。

その頃、即ち学生時代は青春まっただ中で(憧れ、希望、迷いなどの)想いが溢れてメロディーになるという状態であった。卒業後成人病センターで臨床や研究を始め、仕事がおもしろくなると作曲への興味は希薄になっていた。4年前私は、更なる夢を追って大阪府立看護大学医療技術短期大学部へ移って来た。ここで学生と教職員間に公募されていた学生歌に、私が久しぶりに作曲して応募したところ、幸運にも採用され、以後大学祭や卒業式で歌ってくれている。

 この話を聞いて「お前が作曲? 楽器は?」と尋ねる人がかなりいる。ごく少数派ではあるが楽器も楽譜もダメでも作曲する人はいるのだ。頭に浮かぶ旋律を曲にする連中である。この場合、問題はその旋律の再生である。美しかった夕焼けや旨かった寿司の味などは、翌日思い出して他人に伝えることができる。しかし、昨日はじめて浮かんだ旋律は思い出せない。これは私だけではないらしく、著名なジャズピアニストである小曽根真氏も旅先で浮かんだ旋律はドレミになおして書き留めても、翌日には各々の音の長さが思い出せずダメになると言っていた。喜劇王チャールス・チャップリンは楽器も楽譜もダメながら自分が監督するライムライトなる映画の主旋律の作曲者である。彼は浮かんだ旋律を、そばにいたピアニストの前でラララ…と歌ってみせ、ピアニストが楽譜にし、あのエターナリーという見事に美しいメロディーができたという。コミックソングの嘉門達夫氏はベッドの中で旋律が浮かぶとガバと跳ね起きて枕元のテープレコーダーに吹き込み、街で浮かんだ場合は自宅のルス電に入れるそうだ。私の場合は旋律を(独自の)楽譜にして書き留めておく。これが効を奏して学生歌ができあがった。

 音楽の他にもう一つ、最近になって陽の目を見た私の遊び、イラストがある。中学時代の美術の教師が黒板に書いた字はいずれも非常に興味深い絵になっていた。いつからかそれを真似て字の図案化などで遊ぶようになり、高校〜大学の私のノートには授業中の退屈しのぎに描いたおかしなイラストが登場する。マッキントッシュに触れるようになってからはますます簡単に自由気ままな絵が描けることに満足している。3年前、看護大学で発刊する紀要の表紙デザインが公募になっていたとき、とても学術雑誌のものとは思えない気障なイラストを描いて応募したところ採用された。ありがたいことに半永久的に使ってくれそうである。

 これらアート的お遊びの特徴は独創性であろう。夢を、美を、感動を、独自の方法で表現することは大きな喜びである。デキが良ければ感動は他人にも伝わる。そういえば、私は大学を卒業して以来、研究に一番情熱を傾けて来た。テーマは免疫学の一部である補体であり、臨床にも近い位置にある基礎医学研究である。サイエンスなので誰が追っかけても同じ結論……の筈であるが、ご承知のように研究成果の表現はヴァラエティに富む。職人芸の実験を並べる人から意表を突くアイデアを出す人まで、動かぬ証拠を求める人から推測に終始する人まで、格調高い文章を連ねる人から簡潔至極の人まで、著者独自のものであり、それによって読み手が受ける印象は大きく異なる。即ち、研究もアートと言えるかも知れない。確かに世の中には読み手の心の琴線にふれる仕事(論文)がある。

 サイエンスとアート、これらは有史以前から人類が追求してきた‘二つの優雅な創造’でありながら、前者は論理で、真実から更に次の真実を追求する積み重ねであり、後者は感覚で、美や感動を伝達する独自の手段である。即ち対極にあると考えられがちであるが、サイエンスの中にアートはしっかり存在する。また、楽譜に重厚な論理があるように、逆もしかりであろう。

 一方、私がこともあろうに医者を辞めて教師になった理由の1つに、私の講義好きがある。成人病センター時代にも非常勤でときどき専門学校や看護学院に講義に行ったが、講義中は高揚し、講義後は心地良い疲労感に浸る自分を感じていた。但し、自分が講義好きである理由については、本職になってやっと気付いたように思う。即ち、講義もアートなのだ。講義は芝居である。自分は常に主役であり演技はまかされているのだ。その演技によって聴衆は熱くも眠くもなる。演者は毎回ストーリー(IgG の構造だったりアレルギーの4型だったり)は異なるが、最終的にはサイエンス(免疫機構や生命現象)のおもしろさを説く芝居をする……聴衆は芝居に引き込まれ、手を打ったり目を輝かせたり……演者はそれを見てますます演技に熱が入り……かくして演者と聴衆が一体となって独自のアート空間を作り出し……。最近、講義を前にしていつも思う「私にしかできない感動の講義があるはずだ」と。

(平成10年4月)


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