プロフィール
私は、本職としては、医者→研究者→教師 と変遷してきました。ですから、患者さんを診てきました、夢を追いかけて実験し論文を書いてきました、学生達に講義してきました。一方で、主な趣味は音楽とサロンの2つです。前者は、(鑑賞もしますが)若い頃から少しずつやって来た歌作り(作詞や作曲)、後者は、サロン・ド・Kと称する“他の分野の専門家の話を聞く会”の主宰です。 一般の男性達が良くやる、酒(アルコール)、車(ドライブ)、ゴルフや賭け事は一切できません。どうも私は、ありふれた人物ではいたくない…ようです。 生きていく上での、基本的なコンセプトは、“ハッピーな人だけが周りをハッピーにできる”です。一口に言うなら、個人主義(決して利己主義ではありません)でしょうが、独自のモノかも知れません。そして、 その“生き様”を含めた私の作品たちが、鑑賞に堪えるものにすることが理想です。 北村 肇
誕生 | ||
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昭和17年 | 大阪にて | |
学歴 | ||
昭和23年〜29年 | 大阪市立大宝小学校 | 自分より学業成績の良い同級生は殆どいない |
昭和29年〜32年 | 大阪学芸大学(現、大阪教育大学)附属平野中学校 | 同級生に自分より良くできる奴がいる。初恋。 |
昭和32年〜35年 | 大阪府立北野高校 | 自分より良くできる奴が多い。受験勉強は好きな数学、物理だけ。山登りも。 |
昭和35年〜41年 | 大阪大学医学部医学科 | 入学はしたが、好きな科目しか勉強せず、劣等生。山登りやデートにうつつ。大阪大学男声合唱団も。 |
昭和41年 | 医師免許取得 | |
昭和51年 | 学位取得 | 医学博士 |
職歴 | ||
昭和42年〜51年 | 大阪府立成人病センター | 当初は放射線科、次に臨床検査科へ移り、臨床も。研究(免疫学、補体)が好きになり、ライフワークを補体研究と決定。Cold activation現象などを発見。 |
昭和51年〜53年 | 米国ニューヨーク,スローンケタリング癌研究所 | 研究者として出張(留学)。研究もしたが、マンハッタンに住んだので、Exciting City NYを満喫。 |
昭和53年〜平成6年 | 大阪府立成人病センター研究所第6部 | C3 bypass pathwayの発見など、研究生活を満喫。平成になってからは、上から研究テーマ変更を迫られた。 |
平成6年〜17年 | 大阪府立看護大学医療技術短期大学部 臨床検査学科 教授 | 好きな研究ができる場所を求めて、医者から教師に転職。研究費は減ったが、楽しく研究できた。学生講義(主として臨床免疫学)も楽しめた。途中から学科長、更に最後の2年は、管理職(短大部部長)。 |
平成20年〜24年 | 関西福祉科学大学 健康福祉学部 福祉栄養学科 教授 | 大学の先輩から乞われて常勤として勤務。講義は楽しくできたが、最後は、新人類について行けず、大学の教育方針にもなじめず辞職。 |
平成25年 | 補体学会で記念講演 | 依頼を受けて「補体シンポジウム50年の歴史」を講演 |
その他の職歴 | ||
昭和58年頃〜現在 | 大阪府立成人病センター附属看護学院、大阪府立公衆衛生学院、大阪府立看護大学、関西福祉科学大学、神戸常磐大学など | いくつもの教育機関で、非常勤講師として教鞭。医学一般、臨床病理学、病態学、医学英語など 現在は、神戸常磐大学客員教授 |
その他 | ||
昭和31年 | 初恋 | 勉強に手がつかず、成績ガタ落ち |
昭和40年 | 父 他界 | 大学卒業試験の直前に |
昭和46年 | 結婚 | 家庭教師時代の教え子山原弘江と |
昭和59年 | サロン・ド・K発足 | 友人とスタートさせた |
平成15年 | 母 他界 | 大腿骨頭骨折後、寝たきりで |
平成17年 | 執筆開始 | 日本で補体入門書を書けるのは自分だけ・・・ |
平成19年 | 妻 他界 | しばらく途方に暮れる。料理作りに興味 |
平成22年 | 著書「補体学入門」完成 | 発刊記念パーティ |
平成23年 | テディ 他界 | 最後のペット猫。一番懐いていた。 |
平成24年 | 音楽CD(ファーストアルバム)完成 | 作って来た曲達がやっと陽の目。記念音楽会開催。 |
平成26年 | 音楽CD(セカンド、サードアルバム)完成 | 古い代表曲と新作曲も収録 |